豊臣秀吉の死因はなんだったのか? 年表・性格・子孫・家紋は?

SnapCrab_NoName_2015-1-27_16-32-36_No-00

もともとは農民の生まれであり、18歳の時に織田につかえた。その後、織田信長に気に入られ家老にまで出世したのであった。

織田信長の亡き後、その力を日の本中に見せしめ天下統一を果たし、関白まで昇りつめた歴史上で最も有名な武将の一人です。

今回はそんな豊臣秀吉の本当の死因はなんだったのか?年表・性格・子孫をまとめてみました。

死因の真相は?

SnapCrab_NoName_2015-1-27_16-34-10_No-00

関白・その後、太閤まで出世した豊臣秀吉でありますが、最後は何で亡くなってしまったのでしょう?

豊臣秀吉が62歳で亡くなる前、1598年3月に醍醐三宝院で屋敷のものを集め盛大に宴会をしていたと残されています。

その宴会の席で豊臣秀吉は急に倒れました。 その後、数ヶ月にわたり色々な薬や有名な医者を各国から集め治療にあたりました。

そのときに豊臣秀吉は上杉景勝・宇喜多秀家・徳川家康・前田利家・毛利輝元に遺言を書いておりました。

もうダメだと感じていたのでしょう。

その言葉がこちらです。 「返すがえすも秀頼のこと頼み申し候。五人の衆頼み申し候。委細五人の者に申しわたし候。名残惜しく候。以上」

SnapCrab_NoName_2015-1-27_16-32-4_No-00

簡単に言うと息子を頼む。と言うことですね。

この時代、50歳まで生きれば長寿と言われていた時代なので豊臣秀吉は62歳まで生きたのでかなりの長寿といえます。

死因なのですが、書物に慶長3年8月18日のに亡くなったと書いてはありますが、正確な死因は書かれていません。

しかし。かなりの長寿だったため合併症や一番の可能性としてはガンではないか?と言われています。

天下人もやはり人の子。大名たちには勝ちましたが、病には勝てませんでした。

スポンサーリンク


性格は?

SnapCrab_NoName_2015-1-27_16-48-29_No-00

豊臣秀吉は織田につかえている頃からあることが得意でした。それは「人を引き込む」ことでした。

もともと口が達者でしたので、相手に都合の良い話しなどを持ちかけ自分の仲間にすることが得意でした。

そして無類の女好き・遊び好き・黄金好きで有名です。派手なものが好きなのでしょう。

上杉景勝が刀を献上した時も刀よりも、刀の上にかかっていた金の袋のほうが気に入ったという話もあります。

もはや武士ではなかったのでしょうね。

人がよかったという話もありますが、すべては計算をした上でのこと。あと人を見る目はたしかでした。

良い例が「石田三成」ですね。

スポンサーリンク


年表・家紋・子孫は?

豊臣秀吉家紋
SnapCrab_NoName_2015-1-27_16-35-14_No-00

SnapCrab_NoName_2015-1-27_16-33-25_No-00

プロフィール

名前    木下藤吉郎 羽柴秀吉 藤原秀吉 豊臣秀吉など

誕生日   1537年3月17日

あだ名   サル・筑前

正室    ねね様

側室    茶々・松の丸殿

姉     とも

弟     豊臣秀長

妹     旭姫

子供    捨丸・拾(豊臣秀頼)

農民の子として生まれた豊臣秀吉は数々の職に就いた後18歳で織田信長に仕えることとなる。

25歳でねね様と結婚。

信長の敵討ちで明智光秀を討ち取り、数々の戦を勝利し1585年に大阪城を築城した。このとき49歳。

越後の上杉景勝など有名な数ある武将を臣下におき関白になる。最後まで降伏しなかった北条氏政を自害させ小田原城を攻め落とした。

その後、実の子孫である捨丸の死や、朝鮮出兵・千利休の切腹・後継者変更など数々の歴史を作りこの乱世に名前を残したのでありました。

スポンサーリンク


サブコンテンツ

このページの先頭へ